『1973年のピンボール』を読んで孤独について考える

子供が夏休みの宿題に苦戦している横で悠々とブログ書きです(^-^)

 

私はずっと、村上春樹って「アドベンチャー」が面白い人だと思っていました。

(ちなみに好きな村上春樹小説は1位:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド、2位:ねじまき鳥クロニクル、3位:羊をめぐる冒険。あとはエッセイ。)

 

しかし先日ぱらぱらと、エッセイである『シドニー!』を読んでいて、こんな文が気になりました。

下巻の最後、有森裕子についての考察(!)の中に出てきます。

多くの場合、孤独は人の心を蝕んでいく。僕は作家だから、孤独というものの持つ輝かしい価値と、裏にある危険な毒性をよく承知している。そこに約束されている価値を手に入れれるためには、僕らはその毒とともに生きていく術を覚えなくてはならない。緊張と集中力が必要とされる。少しでも気を抜くと、その毒はすぐに僕らに噛みつく。狡猾な蛇のように。

すばらしくうまい文章。

これを読んで、「あれ?春樹は孤独については相当うるさくて、小説を書くときにも孤独について意識してそうだな?」と思い、孤独をキーワードにして村上作品を読んでみようと思ったのです。

シドニー! (ワラビー熱血篇) (文春文庫)

シドニー! (ワラビー熱血篇) (文春文庫)

 

 

ここで、何で私が孤独にこだわるのか。

それは1年前に離婚したから。子供が二人いるのに離婚なんてよっぽどのことがないとしない。まあ、よっぽどのことがあったんです。渦中の話はまだ書ける状態じゃないです。

で、たまに「今は子供たちは私を必要としているけど、子供たちが大きくなったら私って孤独なんじゃね?」と思うことがあり。

 

そして選んだ作品は『1973年のピンボール』。選んだ理由は何となくです。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 中学生~高校生くらいの時に読んだけど、内容はすっかり忘れていました。しかしすぐに物語に引き込まれて一気読みです。「春樹の力ってすげー!」

 

この小説の中には、まず「僕」の物語と「鼠」の物語の二つがあり、さらに「僕」の物語は時系列がばらばらです。なので年表を作ってみました。

 

1969-1973

1ページ目、1行目にこのように「この物語はこの期間内のことを描いたものなのだ」と明示されます。

 

1969年(「僕」20歳)

  • ここから小説が始まる(「入口」ではなくてページ上の始まり地点)。見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好き「だった」(過去形)
  • 直子と話している

1970年

  • 「僕」と鼠は、ジェイズ・バーでピンボールをしていた
  • 鼠、大学を中退する
  • 「僕」、「寂しさに慣れる訓練」を始める
  • 冬、「僕」はピンボールにはまり、新宿のゲームセンターでピンボールをするピンボールとの会話)

1971年

  • 2月、新宿のゲームセンターがなくなる

1972年

  • 春、「僕」は友人と翻訳事務所を開業する

1973年

  • 双子が「僕」の元に現れる(直子の地元の駅に行くより前)
  • 5月、「僕」は直子の地元の駅に行ってみる。直子は既に死んでいるらしい

9月

  • この小説の「入口」
  • (僕)配電盤の工事人が来て、配電盤を忘れていく
  • (鼠)女に出会う

10月

11月

  • (僕)ビンボールが見つかる。ピンボールと会話する。頭から、ピンボールへの思いが消える。双子が出ていく。
  • (鼠)女に会うのをやめる(10月かも?)。街を出ていくと決意する。

 

この小説の「入口」は1973年9月であると途中で明示されます。9月から11月の間に「僕」と鼠それぞれに起こった出来事を描写しながら、「僕」の方は1969年からの「過去」の出来事についての回想も含みながら物語が進んでいきます。

さらにこの小説自体回想になっていて、おそらく小説が発表された1980年頃から1970年代を回想しての書き方になっています。

なので「ここからここまでが回想」の区切りがはっきりしていないだけでなく、1980年現在からの回想なのか、1973年時点の「僕」の回想なのかもはっきりしていません。さらに先に書いた通り1973年時点の「僕」の回想は時系列がばらばらになっているのです。複雑ー。

 

でも中心である1973年9月ー11月の物語は時系列順に進んでいくので読みにくくはないです。

11月、ピンボールに会いに行くところは立派に「アドベンチャー」です。でも後年の村上小説に比べると物足りない。同様に、村上小説の特徴である比喩やリフレインもありますが、そんなに目立たない。あとセックス描写がない!これは驚き。

その他、直子、井戸、双子など村上作品のキーワードも多く登場します。

 

直子は1970年の秋ごろ死んだのかな?と思うけどこれは明示されてません。

1970年のピンボールとの会話で強調されるのは、直子が死んでしまったことに対する無力感、だと私は思う。

これが1973年になってからのピンボールとの会話になると、辛くはない、思い出は古い光のように自分の心の中にあって、僕は死ぬまでこの光を持って生きていく、となる。そしてピンボールに別れを告げて振り返らない。

とても前向きな変化だと思った。

 

孤独について。

「僕」も鼠も孤独を感じています。でも感じ方はそれぞれ異なるようです。

「僕」は孤独を受けいれることができる(直子の死を乗り越えたことにより)が、鼠は孤独に耐えられない。

「僕」の近くには事務員の女性が出てきて、この女性もまた孤独を感じている。そして「僕」と孤独や寂しさについて会話をするのですが、この会話が何か不自然。まるで自問自答。きっと春樹は、彼女を使って僕の孤独に対する考え方を表明させたかったのだと思う。それは、「寂しさには慣れることができる」「世の中に失われないものはある」(そしてその後ピンボールとの会話によって「僕」の孤独を抱えていく決意はより強まる)。

そして鼠の近くにはジェイがいる、ジェイはまるで鼠の父親みたいだ。でも鼠は街を出ていくことを決意する。孤独とともに生きていく方法を探すために出ていくように思える。

 

結論:孤独の感じ方は人それぞれ違う。今孤独を感じていないのなら先のことは気にしない。そのとき考える。子供たちが大きくなって寂しくなったら、ジェイのように猫でも飼う。

あ、でも『シドニー!』によると孤独には価値があるんだった。だったら私も今感じている不安とかもやもやした気持ちとかからも、何かを得られるといいんだけど。

 

ところで、

この次に書く長編となるのが『羊をめぐる冒険』なんだよね?『羊をめぐる冒険』は『1973年のピンボール』からアドベンチャー要素を拡大させたんだなあ。

羊をめぐる冒険』はスタイリッシュであることをやめて物語に正面から取り組んだ印象なんだけど、『1973年のピンボール』は徹底的にスタイリッシュであろうとしているように思える。象徴的なのは章のシャッフル。確か『風の歌を聴け』もシャッフルされていたよね。シャッフルは物語をかっこよく見せるけど、小説としての力は弱くなる。『羊をめぐる冒険』は転換点なのかも。

 

あーこれは『風の歌を聴け』と『羊をめぐる冒険』も読まなくちゃ!と思ったけど、家にあったはずの『羊をめぐる冒険』がない!お気に入りランキング3位なのに!

確か1973年の事務員の女性と僕は結婚してたよね?でも離婚したっけ?あれ?一緒に翻訳事務所をやってた友人が離婚したんだっけ?気になってきた…。次回は離婚というキーワードで羊をめぐる冒険が読めそう。