意味

4人掛けのダイニングテーブルくらいの大きな箱と、兜の箱と張り子の虎の箱があって、その中身を飾りつけていくのだった。

兜の箱を開けると「祝 田中」と書かれたのし紙が入っていた。
「田中だって」
「でも今の私は田中家とは何の関係もないけど」と思う。
この五月人形は元々、夫の初節句に義母の実家である田中家から嫁ぎ先の夫の実家に贈られたものだった。私たちは特に五月人形にこだわりはなかったので、それを息子にそのまま引き継いだ。離婚するときにこの五月人形をどうするか夫に聞いたが、好きにすればいいとのことだったので私が引き取った。

大きな箱の中には小物の入った小さな箱がたくさん入っていて、その中に提灯の箱があった。提灯には家紋が描いてあって、反対側に「中村氏」と書かれている。
「中村氏だって」
「何か戦国武将みたいだね、このマーク。」
部屋の中で遊んでいた娘に提灯を見せると、娘は少しだけ笑った。
そうだ、そんなに面白いことでもない。ただ、自分の名前が大層に書いてあることが何だか笑える、ということは「正しい」。
私は離婚したとき、姓を自分の元の姓に戻さなかった。子供たちが周りから「中村◯◯さん」と呼ばれ続け、自分の名前として馴染んできたものを変える気にはならなかった。アイデンティティというほどのものではないが、私はそれが「正しい」と思ったからそうした。

私には男の兄弟がいないので五月人形というものの飾り方が全然わからない。飾ることに意味なんてあるのか?結婚していたときの飾り方を思い出しながら、箱の中に入っていた小さなパンフレットを見ながら何とか飾った。虎を組み立て、兜の箱の中から小さな鎧や兜を出して、木でできた骨組みに着せて、太刀や弓矢を並べて、紙でできた菖蒲や柏餅やちまきを鎧兜の周りに並べた。
箱の中で物たちはどれも茶色く変色してぼろぼろになった新聞紙や緩衝用の和紙に包まれていた。7年前に息子のために初めて飾ったときからそれらはすでにぼろぼろだったはずなのだが、なぜ取り替えなかったのだろうと思った。
35年前の地方紙。

夫のことも夫の実家のことも、それなりに嫌になって離婚したのだから、この五月人形は突き返すのが「正しい」ことだったのかもしれない。でも子供たちにとって「五月人形」といえばこの古い五月人形セットのことだったからそれを変えたくなかった。それもまた「正しい」。
少なくとも息子が五月人形に興味を示さなくなるまでは飾って、飾らなくとも20歳になるまでは持っておいて、20歳になったら突き返してやろうか、と思っている。今のところは。正しいか正しくないかはわからないが、私はそうしたいのだ。自分がそうしたいと決断したのなら、それはいつだってきっと「正しい」。

遊びから帰ってきた息子に「飾ったよ」と言うと、息子は「かっこいいじゃん」と言って張り子の虎を持ち上げてみたり、太刀や弓矢を手に取ってみたりした。
まだ、意味はあるようだった。

先のことなんて考えられない。でも来年もまた飾ろうと思ったので、とりあえずは大きな箱の角の破れているところをガムテープで補修して、色あせた新聞紙や和紙を新しいものに取り替えよう、と思った。それだけしか考えられない。